世話する側から世話される側へ
体の弱った高齢者のお話を多くうかがう機会がありました。お話の中で共通していることがありました。それは、年をとって受け入れるのに、適応するのにとっても難しい自分の立場の変化についてです。それは、母として、妻として、大人として担ってきた「人をお世話する」という役割から、年をとったため身体の衰えや病気、障害のために、「お世話される身になる」ということでした。
一般に多くの女性は、「世話する役割」を果たすものだと見られ、それができないことは存在意義すらなくなることと受けとめやすいようです。特に、夫や子ども、親、孫などを世話する人として生きてきた人は、自分の変化だけでなく、相手の変化にも左右され、自分を見失うことも多いようです。
誰の世話にもならずひとりでやっていくことが大事なのではなく、これを自立とするのではなく、このような変化に柔軟に対応できる自分を認めることができるようになること。これが老年期を豊かに生きることにつながるような気がします。
また、世話になることを「迷惑をかけること」として、重荷になり嫌われるものと考えてしまう人もいるようです。世話される側にまわることは、なかなか素直に受けとめられないですね。意地を張って、大事に至ってからやむを得ず世話される側になり、世話する人との関係がこじれてしまうことも多いです。
けれど逆に、世話する側の若い世代の人たちが高齢者を受け入れ大切にする態度を持たなければ、世話される側になることはいっそう難しくなります。若いときから、人間は相互に依存して生きているもの。ひとりで生きていくことなどあり得ないと、理解して、必要なときに「助けを求める、受ける」ことが出来るように準備しておくことが大事なようです。
誰もが老いていきます。老化に伴った変化に嫌悪や逃げることをせずに、受けとめようとする努力も重要です。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」240号(2005年12月5日発行)に掲載された記事です。
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