「私」を見極める
- ヨガ
風薫る五月、ヨーガを行っている部屋から見る庭の木も近くの山の樹々も新緑に輝き、
明るい春の陽射しは新芽に反射し、新しく生まれ循環する生命の息吹をあたり一面に解き放ちます。
その生命エネルギーは人の心の奥深くまで浸透して、
「私」と「他者」の区別のない生命の歓喜で満たされ、その共鳴と共感が無限に広がってゆきます。
私たちの社会は今、新型コロナに病み、疲弊しているようで、
多くの人々が不安を持ち苦悩している様子がニュースでも語られていますが、
それはもう一方で今まで見過ごされてきた異常な社会の歪みや矛盾を
浮き彫りにさせる機会にもなっているようです。
こうして混乱対立する政治、経済、種々の社会問題の中で、
コロナにより乱され阻害された古い社会体制の慣習や利得を回復し取り戻そうとするほど
コロナ禍は苦しいものとなり、これを機会に古い異常な社会の歪みや矛盾を見つめなおし、
新しい調和と生き方を見出すきっかけにできれば私たちの進化と変容につながるでしょう。
個人や社会のエゴ、「私」の都合や損得勘定からコロナ禍を見れば、
「私」は善でコロナは悪、悪に勝利して平和な世界を勝ち取る、
という風な薄っぺらで貧弱な考えになるでしょうが、
「私」を投影しないで事実をあるがままに見れば、
コロナウィルスは太古の昔から自然界に存在するもので、善でも悪でもない実存、真実です。
「私」の都合で善とか悪とか歪んだ判断を下しているだけで、
私たちの在り方や行為が社会の中に蔓延させたわけです。
「私」から発せられる全ての思考、思惑や行為は常に
「私」の都合を投影して部分的、限定的なものになり、必然的に対立、矛盾や葛藤を生みます。
「私」の働きや流れが静止し静寂になれば投影していた虚偽の自己イメージは消滅し、
無限の調和や全体性、あるがままの真実が見えてくるでしょう。
ここにヨーガ・瞑想の本質があります。
「私は社会であり、社会は私である」、ではこの「私」という自我意識は何からできているのでしょうか。
それは我々が持ち所有している「私のもの」の全て、
家、家族、資財や貯蓄、仕事や交友関係、記憶や経験、信条や信仰、知識や情報、思考や感情、
意識の内に蓄積された過去のものすべてからできています。
「私」が意識の中心にある限り、「見て、考えて、経験する私という主体」と
「見られ、考えられ、経験される対象」とは常に分断し、二元対立の違うものとして認識されます。
分断・分裂したものは必ず対立、闘争、抑圧、矛盾や葛藤を生みます。
分裂の中心にある「私」は底の抜けた容器のようなもので、
私たちは常に満たされることのない不安で空虚な感覚の中にいます。
それを満たすことを外に求め、欲望の対象、人との関係性、夢や希望、宗教や信念、
どれを入れても底のない空虚な穴は満たされることはありません。
「私」から発せられる働き、流れである「思考」は、
また実在しない「私」という虚偽の自己イメージを投影して作り上げます。
「見て、考えて、経験する私という主体」というものは元々存在しない虚偽のイメージにすぎず、
実在として存在するのは「対象」のみであることが見えてきます。
「考えること」、「思考」は狭く閉ざされた「私」から発せられ、
常に局部的に限定されたものとなり、必然的に対立や矛盾を生みます。
心が完全に沈黙し、静寂状態になるとき
「私」や「思考」は消滅し、あるがままのもの、真実が見極められます。
ヨーガ・瞑想の本質といえるところですが、そこに至る方法や手段はありません。
ヨーガや宗教、哲学や思想など全て伝統やシステムは思考によって作られた概念にすぎず、
「思考」や「私」を消滅することはできません。
ただ無条件に沈黙し静寂になること、そこに「見極める」こと、「観る」ことが起こるなら、
必ず本質的な行為も起こります。変容は行為によってのみ起こります。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」426号(2021年6月5日発行)に掲載された記事です。