正しい食と適宜の運動、そして明るい心こそが真の健康を築きあげます。ここでは、機関紙「未来」に掲載されたコラムを発信してまいります。

ヨガライフスクールインサッポロ 機関紙「未来」ウェブ

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ヨーガの友人・生徒さんへ

     - ヨガ

前回のメッセージを書いてから、今年1、2月はインド、プーナに滞在しアイアンガー師、プラッシャント氏、その他多くの友人に再会し、またあらためてヨーガの練習に専念することができました。

パタンジャリはヨーガスートラの中でヨーガを深めるための2つの要となる要素を挙げています:それはアビヤーサとヴァイラギィヤ。修行、行をすることと断捨離、欲を離れ、執着を捨て、あるがままに任せること。バガヴァッドギータではこれをカルマヨーガ(行為のヨーガ)とバクティヨーガ(献身・信愛のヨーガ)と表現しています。

我々がヨーガを行うとき何らかの目的を持っています:健康や美容のため、病気や故障を治す為、その他諸々の欲望の対象を手に入れるため。心は目的指向となって外側に向かい、願望が強いほど、今、ここを忘れてしまいます。これに対し目的を持たない無償の行為をプロセス指向と言います。その一番の例は子供が無欲・無心に遊ぶ姿です。子供が遊ぶときは今ここにないものを手に入れようとして(目的指向)行うのではなく、遊び自体が楽しく面白く喜びだから行うわけです(プロセス指向)。その時子供の心と意識は全て今ここに集まります。子供が無心に喜び遊ぶ姿こそ純粋で美しく最も神に近いものと言えましょう。エゴと欲望に膨らんだ大人はそのために心も体も固く重くなり、欲望の対象という動機づけがないと何も動けなくなっています。ヨーガを行うときも同様です。

ヨーガの道はこれらエゴや執着をそぎ落とし軽く自由となり存在の本源に立ち還ることと言えるでしょう。それは本来の自分自身に帰ることであり、誰もが生まれながらに持っているもので、決して今の自分にないものを達成したり手に入れたりするものではありません。エゴや欲望というゴミにまみれ本質的なものが見えなくなり、忘れてしまっているだけです。ヨーガの道はこれを思い出すプロセスであり、誰かに教わったり、情報や知識として身に着けるものでもありません。

欲望と執着で集めたゴミは心身の両面で現れてきます。心は悩み苦しみ痛み、体は固く重く病気や故障・痛みとなるように。そしてこの痛みや苦しみこそが執着を離れ乗り越える道となってくれます。安易な逃げ道や代償を求めることなく正面から取り組み乗り越えることがヨーガの道と言えるでしょう。

心身を軽やかに解放し、ヨーガの行に集中・専心出来るようになると、その行の中に自分自身を超えた大いなる存在を見出し体験することとなるでしょう。それを、天、宇宙、神、純粋意識と呼ぶ人もいます。

ヨーガの道は行に専心し(アビヤーサ)深く自身の中を掘り下げ、エゴへの執着を離れ(ヴァイラギィヤ)自身を超えた大いなる存在とのつながりを実体験し全てをそれに委ね任せること。内なる自分と外の存在が合一すること。知識や言葉の理解ではなく実体験への道です。アビヤーサとヴァイラギィヤ、これが今回のテーマです。


この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」342号(2014年6月5日発行)に掲載された記事です。

著者
吉田 つとむ
心と体のヨガ教室主宰

和歌山市出身、横浜市立大学卒業。パリ大学留学中にヨガと出合い、帰国後、沖ヨガ道場入所。沖正弘導師に師事。ヨガ指導に従事。インド・プーナのアイアンガー道場に通いアイアンガー師に師事。

略歴
・アイアンガーヨガ指導者として認証される。
・プーナの和尚ラジネーシ瞑想センターにて各種心理療法グループ研修後、和尚サニヤシン(出家者)となる。頭蓋仙骨療法(クラニオセイクラル・セラピー・バイオダイナミックス)トレーナー養成コース終了。
・ヴィパアサナ瞑想センターで瞑想修行。以降フェルデンクライス・メソッドの研修、気づきのレッスンとして応用指導に当たる。
・マイソールのアシュタンガ道場でパタビジョイス師に師事。
アシュタンガヨガ修行後、指導者として研修と指導に従事。

翻訳
ヨーガの樹

B.K.S.アイアンガー 著
吉田つとむ 翻訳
サンガ 2015/10/24