私はそれである ― 全てがいっぱいに満ちて
- ヨガ
iisha-upanishad(イーシャ・ウパニシャッド)から冒頭のbiija-mantra(種子マントラ)の祈り:
aum,
puurnam adah,
puurnam idam,
puurnaat puurnam udacyate,
puurnasya puurnam aadaaya puurnam evaava-shishyate.
aum,shaanti(h),shaanti(h),shaantih.
オーム
彼方(あそこ)も全ていっぱいに満ち
此処(ここ)も全ていっぱいに満ち
全体よりいっぱいに満ちた全体が現れ出る
いっぱいの全体から全体を取り去ってもいっぱいに満ちた全体性のみが残る
オーム、シャーンティ、シャーンティ、シャーンティヒ
adas(h)は彼方、彼岸であり姿形のないもの、究極の絶対的な存在、存在の隠れた見えないもので、真実・真理、神、涅槃などと呼ばれているものです。一方、idamは此処、現象世界、顕現した姿形のあるもので、私たちの日常世界です。「あそこ」は「私」という存在の中心、「ここ」は私たちの表面に現れたものです。この両者ともいっぱいの全体であり、両者で一つの全体性を成しています。
ウパニシャッドの時代は後世に見られたような苦行や修行で人間本来の自然な感情や欲望を抑圧・禁欲する放棄や出家で人間の生を否定する思想にはまだ汚されてなく、自然と一体となりおおらかに生を謳歌し肯定する様相がありました。
ヴェーダーンタ学派が隆盛のころ不二一元論(advaita-vaada)が中心に説かれ、それは真に実在するものはbrahman(ブラフマン、梵、絶対的存在、大宇宙)のみであり、私たちの身体や思考をも含め神羅万象はmaayaa(マーヤー、幻想、妄想)にすぎないとしています。唯心的精神論でしょう。一方唯物論者はその対極をなし、物質のみが実在し、意識はその付帯現象(epiphenomenon)にすぎないとしています。
ウパニシャッドはこの両者を抱合するようなもので、究極の絶対的存在=ブラフマン(brahman)はすべてを超越したものでもあり、個々に内在するものでもあるとされています。一つを選択し他者を排斥するような選択性はありません。
「いっぱいの全体から全体を取り去ってもいっぱいに満ちた全体性のみが残る」—現代の私たちの精神構造は物質的な拝金主義に侵されているようです。夫婦関係を含む男女の関係性においても、相手が他の人に恋愛感情を抱いたり、「浮気など」をすると、「嫉妬」し、「傷つき、損害」を主張し、「補償問題」となります。相手が浮気をすると自分に対する愛情が減り損害を受けることになるのでしょうか。相手を自分の所有物とみなし、支配する感情があるのでしょうか。「嫉妬」、「所有欲」、「支配欲」には真の愛も自由も存在せず、「愛」も死滅してしまいます。「愛情」と称し欲望の対象を取引するビジネスに陥っているようです。ウパニシャッドにおける愛や全体性はいくら注いでも減じることはなくいつもいっぱいに満ちていると説きます。
ウパニシャッド以降の何千年もの間、ヨーガや精神世界に於いても苦行や禁欲が推奨され、人間の自然な感情や欲望が抑圧される風潮となり、「欲望」、「怒り」、「貪欲」を抑制、捨離し「放棄、隠遁、出家」などの逃避思想に汚染されることになります。強大な権力を持つ国や部族が武力で人々を支配・抑圧する残酷な社会の中でこのような思想が生まれてきたのでしょうか。
ヨーガに生きる私たちにとりヨーガの源流を五千年程前のハラッパーやモヘンジョダロの豊かな文化に求めます。その中心を成したドラヴィダ民族は北方からの異民族に襲撃され南方に逃げ、南インドにはその文化が今も多く残っているようです。人々は自然や八百万の神々と共に生き、生を謳歌し肯定する豊かな文化の中に。
苦行などに汚染され、抑圧された精神性やヨーガはやがてインドと共に滅亡しますがそれが欧米に渡り新しく再生され、蘇ったものの中に私たちはいます。ネオ・ヴェーダーンタや現代のヨーガです。これはインダス文明やウパニシャッドの中にあった本質的な精神性やヨーガを現代に蘇らせ新しく創造する試みとも思えます。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」469号(2025年1月6日発行)に掲載された記事です。