矢
- インド哲学
お正月の縁起物として神社や寺院で授与されるものに、破魔矢があります。今日では、矢は魔除けのお守りとして用いられるだけですが、古代においては、弓と矢は戦闘には威力のある武器でした。
インドでも、仏教やヒンドゥー教の聖典の中に、矢にちなんだお話しがたくさんみられます。今回は、そんなお話しをしてみましょう。
仏典では、心臓にささる矢は、煩悩のたとえです。生きとし生ける者が、否応なく死に引き寄せられ死にいたるさまを、まるで矢に射ぬかれるようだと喩えるのです。嘆き悲しんでもどうにもならないと、ブッダは述べています。だから、矢を引き抜いて寂静を得るならば、煩悩のない安らぎの境地に至るだろうとブッダは教えます。「自分の安らぎを求めている人は、自分の矢を引き抜きなさい」と、ブッダは、人々にこう語りかけるのです。煩悩の矢を引き抜くというのは、欲望を抑え執着をなくしていくことです。
一方、ヒンドゥー教の叙事詩『マハーバーラタ』の中で描かれるのは、古代の戦闘シーンです。そこでは、馬の引く戦車に乗った射手が活躍しました。『マハーバーラタ』でも、クリシュナを御者とし弓の名手アルジュナが戦車に乗って戦います。そして、激戦の末カウラヴァ軍を滅ぼして勝利します。
ここに登場するクリシュナは、ヴィシュヌの化身として神格化されていますが、『バーガヴァタ。プラーナ』には、人間である英雄クリシュナの死が描かれています。かれはジャラという名の猟師に急所のかかとを射抜かれて亡くなります。ここにも矢がでてきました。ジャラとは、「老い」という意味です。英雄クリシュナも、老いには勝てなかったといわれているようでもあり、何か仏教の諸行無常を思わせるところがあります。
最後に、仏教の菩薩のお話しでしめくくりましょう。矢についてのおもしろいたとえ話があります。菩薩というのは、ブッダになって衆生を救済しようとする者をいいます。自分の悟りだけを目指すのではなく、他者を救うことが目標なのです。 他者を救うことが出来るものをブッダというのです。
そこで、自分だけの悟りであれば得てはいけないと言われるのです。悟りの境地である涅槃を横目に見て通り過ぎ、衆生を救うことが出来るようになるまで修行し続けなければなりません。それを、空中の矢に喩えて、こんな風に言うのです。
虚空に矢を射て、その矢を落とさないように次々と矢を射るとしよう。矢で矢を支えて地上に落とさないように、菩薩もまた、智慧の矢によって解脱という虚空を射て、方便という後の矢によって、それを次々支えて、涅槃の地に落とさないようにするのです、と。こうして、菩薩たちは、智慧と方便(たくみなやり方)を用いて、他者のために行いを重ねていくのです。矢で矢を射て地上に落とさない、という技が現実にありうるのかどうかわかりませんが、不断の努力によって利他行に励む菩薩の行いがうまく伝わるたとえですね。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」433号(2022年1月5日発行)に掲載された記事です。
著者 |
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略歴 ヨガライフスクールインサッポロ講師、北星学園大学、武蔵女子短期大学、その他多数の大学、専門学校にて非常勤講師として教鞭をとる。著書に『インド新論理学派の知識論―「マニカナ」の和訳と註解』(宮元啓一氏との共著、山喜房佛書林)、『ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む』(宮元啓一氏との共著、講談社)、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)、『龍樹造「方便心論」の研究』(山喜房佛書林)、『ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道』(サンガ)、『ブッダの優しい論理学―縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法』(サンガ新書)、『龍樹と、語れ!―「方便心論」の言語戦略』(大法輪閣)、『龍樹―あるように見えても「空」という』(佼成出版)がある。 |