法螺貝
- インド哲学
(『バガヴァッドギーター』より)
戦国の武将たちが、戦の前に吹き鳴らす法螺貝。一度はテレビなどでご覧になった方もいらっしゃるでしょう。独特の、腹の底に響くようなブオ~~ッという音をお聞きになって思わず武者震いした方も多いかもしれませんね。戦意を高揚させるため、戦陣の合図を送るため、太鼓や法螺貝など音の出るものが、かつて戦闘で使われました。
古代インドでも、戦闘で法螺貝が用いられています。バラタ族の大戦争を描いた『マハーバーラタ』の中にも登場します。『マハーバーラタ』の一部をなす『バガヴァッドギーター』は、インド人に愛され続けている「聖典」といってもよいかもしれません。その中から、法螺貝が吹き鳴らされるシーンをご紹介しましょう。
『バガヴァッドギーター』の主人公は、アルジュナ王子です。かれを含む5人の王子たちとクリシュナを擁するパーンダヴァの軍隊は、敵の軍隊カウラヴァの軍と壮絶な戦いを繰り広げることになります。かれらが向き合って合戦を始めようとするとき、この法螺貝が吹き鳴らされ太鼓が打ち鳴らされます。
アルジュナ他5人の王子たちは、銘々名前のついた法螺貝を高らかに吹き鳴らします。まず、クリシュナはパーンチャジャンヤという法螺貝を吹き鳴らし、アルジュナ王子はデーヴァダッタという法螺貝を吹き鳴らします。ビーマはパウンドラ、ユディシュティラはアナンタヴィジャヤを、ナクラとサハデーヴァは、スゴーシャとマニプシュパカという法螺貝を吹き鳴らした、とあります。さらに、パーンダヴァ軍の他の戦士たちも負けじと一斉に法螺貝を吹き鳴らします。
そのすさまじい音は天地を震動させて、敵陣にいるドゥリタラーシュトラの息子たちの心を引き裂いた(『バガヴァッドギーター』1・19)、とあります。味方を鼓舞し、敵の心に戦意喪失を起こさせる法螺貝。いざ合戦の火ぶたが切って落とされようというとき、アルジュナは戦うべき敵陣の面々をみようと、御者のクリシュナに、戦車を進めて向き合っている両軍の間に止めるように告げます。
歩を進めたアルジュナは、敵陣の中に、これまで自分を可愛がってくれた父にも等しい人々、親族、いとこたち、友人、知人、自分に武芸を教えてくれた師などの人々の顔を見ることになるのです。吹き鳴らされた法螺貝の勇猛果敢な音とは裏腹に、アルジュナの心に大きな迷いが生じてしまいます。戦意喪失したのは、何とアルジュナの方でした。口は干からび身体は震え総毛立って、親族を殺すことに怯えるアルジュナ。いくらクシャトリアのカースト(戦士階級)に生まれたとはいえ、親族を殺してどんな罪悪がかかるのかと震えるアルジュナ。
ここから『バガヴァッドギーター』の哲学的な思想が、バガヴァット(クリシュナ神)の口を通して語られていきます。終始一貫して、迷いなく戦うように勧めるバガヴァト(クリシュナ神)。
深い哲学思想が瞑想の大地インドを静かに覆って行きます。ヴィシュヌ神のアヴァターラ(権化)であるクリシュナ神が、アルジュナ王子に語る種々の哲学や思想は、インドの人々の心に深く染みこんで精神的なよりどころとなっているのです。そう思って聞くと法螺貝の音色は自らの義務として戦わねばならない、クシャトリアの悲しみを唱っているかのようであります。インド人を精神的に鼓舞してきた『バガヴァッドギーター』の思想は、どこか遠い日本の武士道精神にも通じているように思われてなりません。遠くて近い国インド。その思想を、今年も、みなさんと一緒に学んで行きましょう。どうぞよろしくお願いします。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」445号(2023年1月5日発行)に掲載された記事です。
著者 |
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略歴 ヨガライフスクールインサッポロ講師、北星学園大学、武蔵女子短期大学、その他多数の大学、専門学校にて非常勤講師として教鞭をとる。著書に『インド新論理学派の知識論―「マニカナ」の和訳と註解』(宮元啓一氏との共著、山喜房佛書林)、『ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む』(宮元啓一氏との共著、講談社)、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)、『龍樹造「方便心論」の研究』(山喜房佛書林)、『ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道』(サンガ)、『ブッダの優しい論理学―縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法』(サンガ新書)、『龍樹と、語れ!―「方便心論」の言語戦略』(大法輪閣)、『龍樹―あるように見えても「空」という』(佼成出版)がある。 |