正しい食と適宜の運動、そして明るい心こそが真の健康を築きあげます。ここでは、機関紙「未来」に掲載されたコラムを発信してまいります。

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瞑想あれこれ

     - インド哲学

インドは、瞑想の王国です。
みなさんがなさっている「ヨーガ(ヨガ)」も、もちろん瞑想を表すことばです。
今回は、ヨーガの他にも、サンスクリット語で説かれる瞑想を表すことばを
いろいろ比べてみたいと思います。
さて、ヨーガということばは、「つなぐ」というもとの意味から、
自分自身を「制御すること」とか「精神統一すること」という意味が出てきます。
がっちり縛りつけて動けなくするイメージからでしょうか、
ヨーガ学派の定義では、「心のはたらきを止めること」とされています。
心のはたらきが止まると、ふつうは身体の動きも止まってくると考えられますが、
銅像のように、まったく何もかも完全に止めてしまうことは
ふつうは難しいと考えられます。
生きていれば、細く呼吸をしたり、かすかに意識があったり、微妙にどこかは動いているでしょう。
どこまで、止められるのか、その限界に挑戦するのが、
ヨーギンたちの真理の探究にもなってくるでしょう。

瞑想の中で、動いているところに意識をもってくるとき、
仏教では、「観察(ヴィパッサナー)」といいます。
止まっているところに意識があるとき(という言い方も変かもしれませんが)、
「止(サマタ)」といわれ、瞑想にはこれら二つの種類があると、仏教では説いています。
仏教以外では、このような分類は見当たらず、どちらかといいますと、
心を止めるサマタ瞑想が主体になっていると考えられます。
しかし、これらの2種類は、便宜的な分け方であって、瞑想の中ではどちらもあらわれます。
八支ヨーガ中の「精神集中」を表すダーラナーという瞑想は、
一つのものに集中しているとき、意識によってどちらも成りたちます。
一つのものをじっと見つめる瞑想では、見つめている意識が強いとき、観察になりますし、
心を集中すれば「止まる」という点が強調されてくるでしょう。
ダーラナーの次にくる深い瞑想は、ディヤーナといいます。禅定ともいい、静慮とも訳されます。
これも、意識の違いにより、観察になったり止滅になったりすると考えられますが、
仏教では、「観察」ととらえるようです。それに対し、仏教以外では「止滅」の深まりととらえます。
こうして、瞑想が深まるとそれは頂点に達し心が浄まって輝きます。
それをサマーディ(三昧)というのです。 

サマーディは、瞑想のいろいろな段階でその都度起こりますが、
大事なことは、このとき知恵が生ずるということです。
サマーディに到達して、自分の中に何かはっきりした確信のようなものが
生まれてくると、説明があらわれてきます。
理論が生まれてくるのです。ここにこそ、真理があるとみるのが、
インドの哲学で、それは人間の最高の幸せであるとされるのです。
瞑想というのは、いろいろあっても、みな、
人が最高の幸せを得るための技法なのだ、といえるかもしれません。


この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」349号(2015年1月5日発行)に掲載された記事です。

著者
石飛 道子

略歴
札幌大谷大学特任教授。北星学園大学他、多数の大学・専門学校にて非常勤講師著書『ブッダと龍樹の論理学』ほか多数。

ヨガライフスクールインサッポロ講師、北星学園大学、武蔵女子短期大学、その他多数の大学、専門学校にて非常勤講師として教鞭をとる。著書に『インド新論理学派の知識論―「マニカナ」の和訳と註解』(宮元啓一氏との共著、山喜房佛書林)、『ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む』(宮元啓一氏との共著、講談社)、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)、『龍樹造「方便心論」の研究』(山喜房佛書林)、『ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道』(サンガ)、『ブッダの優しい論理学―縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法』(サンガ新書)、『龍樹と、語れ!―「方便心論」の言語戦略』(大法輪閣)、『龍樹―あるように見えても「空」という』(佼成出版)がある。