人生の折り返し、40過ぎて思うこと
ある時、同年代の友人が「折り返しも過ぎたから、そろそろやりたいことを始めなくちゃねえ」といった。
「何の折り返し?」、「もちろん人生よ」。こんなやりとりをしました。
私の仕事仲間の友人は、職業柄か老後を考えている人が意外と多いです。
経済的なものというより、人生をいかに終結させるかについてです。
高齢者のサービスをしながら、自分の老後に置きかえているようです。
話は「どんなふうに年をとりたいか」に変わりました。仲間のひとり、男性が言いました。
「そりゃあ、かわいいおばあちゃんになりたいんだろう」。これを聞いた女性の反応はすごかったです。
「まったく、年をとってまでかわいいなんて、いわれたくないわよね。子どもじゃないんだから」、
「何でかわいいとか、愛される年寄りにならなくちゃならないの」、
「だいたいかわいい爺さんになれるとおもってるの?」、「私はひねくれた婆さんになってやる」。
かわいいという基準を持ってきたことに腹を立てたのだと思いますが、大笑いでした。
私も彼女たちの考えに同感。たとえ呆けても、老いていくことは、子どもに戻るわけではありません。
人間としての基準があって良いはずです。
人生を経験して来たときに「かわいい」が目指すものでは悲しいと、私は思っています。
人生50年の時代には、40代では残された人生を思う存分生きることができたかもしれません。
けれど人生80年の今、時間はこれまで生きてきた分あるかもしれない、
老後の不安なんてことを考えてしまいます。
40代に思う存分やれるならよいけれど、華々しく散るわけには行かない、
まだまだ時間はあるんだよな、と思ってしまうこの頃です。
先の友だちに「私が呆けても遊んでよね」と言いましたら、
「大丈夫。今も十分ぼーっとしてるから、気がつかないかもね」といわれ、しばし落ち込みました。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」219号(2004年3月5日発行)に掲載された記事です。
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