環境のサポートの意味
三月に脳出血で倒れた母が二ヶ月ぶりに外出することになりました。外出に当たっては、病院スタッフが万全の準備を整えてくれ、車椅子に杖、装具を提供してくださいました。家族としては、その借りた道具を使えるのか、お手洗いは?段差は?何かあったときの連絡先は?と、意味もなくばたばたしました。
家族としての一番の心配は、外出することを、外出した結果を障害を持った母がどう受け止めるか、ということでした。これまでできて当たり前のことができないとき、自分の慣れた環境がコントロールできないとわかったとき、どんなふうに感じ、障害を認識するのか、これが最大の不安でありました。
障害を抱えたことは実感していても、それは病院の中でのこと。何かに挑戦するたびに、行動範囲を広げるたびにぶつかる困難に、充分耐えてくれるであろうか。私たち家族は支えることが出来るのであろうか。
孫の運動会のための外出でしたが、お天気はあいにくの雨で、運動会は順延。目的地が変更になりました。改修中の我が家に入ることは出来ず、外回りをながめ、自分を迎える準備をしていることを目で確認。自分の移動能力が安定さえすれば、自宅に帰ることができると確信できたようです。
けれど、母が何よりも喜んだのは、愛犬の歓迎ぶりでした。しっぽを振り、匂いをかぎ、手をなめ、寄り添う犬に、自分を必要としているものがいると実感できたようです。純粋に喜ぶ姿は、子どもと動物にはかないません。
春の季節も力を与えてくれたようです。雨に打たれた若葉がきれいで、ライラックの漂う匂いがすてきで、目を輝かせていました。自然の力は偉大です。母がもうひとつ行きたかったところは、宝くじ売り場でした。「当たるような気がする。当たったら家の改修に役立つでしょう」といって、家族を笑わせていました。「役に立つ」という言葉が響きました。素直に当たるといいなあと思った娘でした。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」246号(2006年6月5日発行)に掲載された記事です。
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