年をとるということ
平均寿命の半分を過ぎたと思った頃、あえてはっきりさせるならば、私は四十五歳の誕生日に、ピークを越したと感じました。何か特別なことがあったわけではありませんし、節目がわかったわけではありませんが、ピークを越したということは実感できました。そんな私ですから、「まだまだ若い、これからですよ」、なんていう言葉は厳しい言葉に感じるこのごろです。
年をとっても元気で、生涯現役、一生学ぶ、死ぬまで成長する・・。確かにすごいことだと思います。けれど、これらは私の望んでいることなのか、本当にそれが良いことなのだろうか。最近良く考えます。
昨日できていたはずのことが、今日はできないことに気づく。明日はもっとできなくなるかもしれない。実際にそう感じますし、これを認めることは確かに恐ろしい。すなおに認めるわけにはいかない。なので、まだ弱っていない自分、まだ大丈夫な自分を確認する作業を繰り返し、老いた体に鞭を打つ。できて安心。できなければ、できなくなった言い訳が何かあると助かる。
こんな生き方を続けるということは、ずっと走り続けなければならないということになります。穏やかな老後とか、悠々自適なんてありえない。休む暇もない。自分の人生をどう決着させるのか、考えている暇はないです。なかなか大変なことだと思いませんか。
よく、好きなことをしている最中にぽっくり死にたいと言われる方がいますが、ぽっくり死ぬなんて、とても難しいことです。多くの人は、痛くて、動けなくて、辛くて、わからなくなって、死んでいく。そんな現実を見せつけられると、受け入れるには勇気が、強さが必要なのかもしれないと思います。
受容する強さが、人生の終着をむかえるために必要なことなのかもしれません。これはある意味、挑戦に値します。若い時は避けてきた、逃げてきたことを受け入れることになりますから。そういう能力ができたとき、年をとったというのかもしれません。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」288号(2009年12月5日発行)に掲載された記事です。
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