「自燈明、自らが自分自身の光であれ」
- ヨガ
新型コロナウィールスが日本でも騒がれ始めてもうすぐ1年になろうとしています。
事態は全国でますます悪化して、そのためにか社会の人々に不安や恐怖が広がり、
苦しみや混乱、分断や対立が蔓延してきているように思われます。
新しいヴェーダーンタのヴィジョンの一つに「世界は貴方であり、あなたは世界である」とありますが、
私たちの外の社会で起こっていることはそのまま全て私たちの内側の心理にも存在することになります。
コロナ以前から私たちの内外に存在するこのような不安、恐怖、苦悩、混乱、矛盾、分断、対立などに対する
「光明」というものがあるのか、ヨーガ・瞑想がその光になりうるのかが今回のテーマです。
私たちは遠い昔から自分の内に燈明を見出せなくて、それを自分の外のものに求め依存してきました。
知識や情報、思想や哲学、宗教や権威などこれらすべて私たちの内なる光になりませんでした。
私自身も自分の内に「光明」を見出せず、それを外に求めて
何人ものヨーガ・瞑想の師・グル達を日本やインドで巡り渡り、彼らの弟子となってきましたが、
そこで迷い苦悩して自らの愚かさと間違いに気づきました。
弟子になるのは「真似をする」ことであり、それはまた「自身の光」を諦め、自分の内側に疑問を持ち問うこと、
自身に正直・誠実であることを止め、自らの全体性を放棄することであると。
弟子になることは同時に動機や目的を伴います。恩恵や報酬を受け取りたいという期待です。
真実という光は報酬として得られものではなく、
それを理解するためにはすべての形の報酬や罰などを手放さなくてはなりません。
私たちが権威に従属、依存するのは内在的に恐怖があるからであり、
その恐怖から権威やそのシステム、メソッドに従って訓練に従属すれば
自らの光や本来の自己に正直・誠実であることを否定することになります。
流派やメソッド、システムに従属、依存するのはそれを通して成功願望という動機があり、
そこから利得を得たとしても自らがその流派やメソッドに迎合して条件付けをされ、
分断され、真実・全体性という光明を失してしまいます。これらすべての根底に「恐怖」があります。
私たちの日常には師と弟子以外にも多くの物理的・心理的な支配と従属・依存関係があるようです。
雇用者と被雇用者、夫と妻、先生と生徒、その他、支配と従属がある限りお互いに破壊しあい、
そこには自由も愛もありません。
私がヨーガを教える場では、ヨーガの仲間友人として一緒に探求したいと思っています。
ここで私が述べることに賛同や反対をしないで、自ら自分の内に確かめてください。
「自らの光」というものが真実・実在として思考やエゴを超越して存在するのか、
それともこれも思考が作り上げた概念、虚偽のイメージにすぎないのか私は知りません。
だからこそヨーガの場で一緒に探求するのが私の願いです。
私たちの内外にある恐怖や不安、苦しみや混乱、矛盾や対立はどこに根源があり、
どのようにやってくるのか、それらは欲望や快楽と同様、私たちの中心、「私」というエゴからやってきます。
この根源と本質を深く見極めてその中心にある「私」を消滅するのが真正のヨーガ・瞑想といえるでしょう。
そこでは「私」というものの心理的な「死」を重視してきました。
アーサナの最終のものはシャバ・アーサナ(死骸のポーズ)ですが、
すべての連続性、流れや動き、思考は止まります。
プラーナヤーマはプラーナ・アグニ・ホートラ(火に対する生命の供犠)から始まり、
その究極のものはケーヴァラ・クンバカです。
これは呼吸の流れとともに意志でコントロールするサヒタ・クンバカと違い、
自然に自発的に内側から起こるクンバカ(止息)で「死」を暗示します。
ヨーガ・スートラにある「心の働き(思考)の静止」も「死」に共通するものです。
ヴェーダーンタでは「私」というエゴの「心理的な死」を
ジーヴァン・ムクタ(生前解脱、生きている間に解放されること)と呼んできました。
「光」を覆う障害が私たちの恐怖、苦しみ、混乱の中心にある「私」であることを知り、
その本質が虚偽のイメージにすぎないことを見極めれば、
「心理的な私の死」により「光明」が現れるのか、一緒に探求しませんか。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」421号(2021年1月5日発行)に掲載された記事です。