正しい食と適宜の運動、そして明るい心こそが真の健康を築きあげます。ここでは、機関紙「未来」に掲載されたコラムを発信してまいります。

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「生命」は物質なのか?

     - ヨガ

「ヨーガ・スートラ」を典拠とする古典ヨーガは古代のサーンキャ哲学に依拠すると言われています。サーンキャ哲学はその中心思想としてプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)の二元論を立て、ヴェーダから現代のヴェーダーンタに至る流れに依拠する現代ヨーガとは一線を画しているようです。

「物質原理」あるいは「根本原質」と訳される「プラクリティ」はそのもっとも微細で「未顕現」(avyakta)の根源から「展開」、「輪廻」(pari-vrtta)して意識や感覚、また微細なあるいは粗大な物質となり「顕現」(vyakta)するとされています。知性や思考、感覚の作用も物質の働きとされているわけです。

バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナはアルジュナに説きます:

「地、水、火、風、虚空、マナス(意、思考)、ブッディ(知性)、アハンカーラ(自我意識)と、この私のプラクリティは八種に分かれている」―Ⅶ‐4

「これは低次のものであり、これとは別に生命存在(jiiva-bhuuta)である私の高次のプラクリティがあることを知りなさい、アルジュナよ!それによってこの世界は維持されている」―Ⅶ‐5

「昼が来ると万物は未顕現から顕現へと生じる、夜が来るとそれらはその未顕現と呼ばれるものの中に帰滅する」―Ⅷ‐18

「しかしその未顕現のものより別に高次の永遠の未顕現の存在がある、それは万物が滅んでも滅亡することはない」―Ⅷ‐20

ここでいくつかの疑問が湧いてきます。「aham brahmaasmi=私(アートマン)はブラフマンである」とアートマンとブラフマンが同一であると一元論を説くヴェーダーンタで言われるジーヴァ(jiiva,生命、霊我)をサーンキャの二元論に融合できるのだろうか?

「生命存在」は「プラクリティ」即ち物質なのか、それとも「プルシャ」純粋な精神原理のことを指しているのだろうか?ヨーガで言われているプラーナ(生命素)も「プラクリティ」、物質の未顕現の形なのだろうか?

そもそもこれらの「論」は思考が作り上げた概念、説、妄想に過ぎないものか?それともこれらを理解することで私たちがヨーガや瞑想の実践において「真実」を見出し、洞察するヒントや参考になりうるのだろうか?

現代の覚者たちは皆これらの聖典、経典(shaastra)は「未知への探求」の準備としてその入り口に達するまでは役に立つが、準備ができ実際に探求を開始したならばこれらの知識や情報を捨て無垢の状態にならねばならない、これらは実際の探求においてむしろ障害になる、と教えています。なぜなら「真実の探求」は思考や概念、知識や情報を超えた領域に入ってゆくから。思考や知識は「生」の働きの一部である物質的な頭脳による言葉の記憶にすぎず、これに対し「真実への探求」は肉体や精神、感情や意識の「生の全体性」、「存在の全体性」に係ることだから。


この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」454号(2023年10月5日発行)に掲載された記事です。

著者
吉田 つとむ
心と体のヨガ教室主宰

和歌山市出身、横浜市立大学卒業。パリ大学留学中にヨガと出合い、帰国後、沖ヨガ道場入所。沖正弘導師に師事。ヨガ指導に従事。インド・プーナのアイアンガー道場に通いアイアンガー師に師事。

略歴
・アイアンガーヨガ指導者として認証される。
・プーナの和尚ラジネーシ瞑想センターにて各種心理療法グループ研修後、和尚サニヤシン(出家者)となる。頭蓋仙骨療法(クラニオセイクラル・セラピー・バイオダイナミックス)トレーナー養成コース終了。
・ヴィパアサナ瞑想センターで瞑想修行。以降フェルデンクライス・メソッドの研修、気づきのレッスンとして応用指導に当たる。
・マイソールのアシュタンガ道場でパタビジョイス師に師事。
アシュタンガヨガ修行後、指導者として研修と指導に従事。

翻訳
ヨーガの樹

B.K.S.アイアンガー 著
吉田つとむ 翻訳
サンガ 2015/10/24