バクティ(信愛、献身、あるいは帰依)と奉仕について
- ヨガ
35年ほど前、私が初めて、静岡県三島市にあった「沖ヨガ道場」に入所した際、私の最初のヨーガの師となった「沖 正弘」先生という方がおられました。私は、最初は「受講生」として、直後に「奉仕生」、その後「研修生」としてスタッフの一員となりましたが、それまでパリで自由な生活を送ってきた者にとり、「道場生活」は江戸時代の城内のようでした。殿様のように怖い「沖先生」の命令一下、朝は5時起床、すぐに「般若心経」を始めとする読経、道場内の清掃、マラソンと続き「朝食」は味噌汁が一杯だけ。午前中の「行法」は「浄化法」から「強化法」まで間断なく続き、「昼食」は湯呑茶碗一杯の玄米に少量の菜食。短い昼休みの後、午後の「行法」も連続して続き、「夕食」は蕎麦が一杯だけ。夜には、沖先生の「質疑応答」があり、10時就寝。道場内に、三々五々、雑魚寝して、翌日も5時から始まります。私はこのような「道場生活」を、インド滞在1年間に前後して、数年間送りましたが、この質疑応答で、今でも印象深く残っている「沖先生」が言っていたことは:「受講生!お前達は、ここが痛い、あそこが悪いと言って、道場にやって来て、高い金を払ったのだから、お客様扱いをされると思ったら、大違いだ。毎日、朝は5時にたたき起こされ、掃除や奉仕と言ってこき使われ、「行法」ではお尻をひっぱたかれ、食事は僅かしかなく、快適なベッドもなく雑魚寝だ。ざまあ~みろ!」。私はその後何度もこの沖先生の言葉を聞くたびに、むしろ小気味よさを感じていました。
我々がヨーガを始める時も、エゴを出発点とし、「病気や問題を癒し、健康を増進させたい」、このような、欲望の対象を手に入れることを目的とすることがほとんどだと思われます。ただいつまでもこの段階、自らの利益の為技術や知識を求める、エゴと欲望への執着に留まっている限り、何の進歩や進化もありません。次の段階は何でしょう。
沖先生の後、私はインドで、アイアンガー先生を始め、何人かのグル(師)に師事しましたが、共通した「教え」があります、それが今回の拙文のタイトルとしたバクティあるいは奉仕です。
エゴと欲望を動機としてヨーガを行っても、これに執着している限り我々の身体や心の中にスペース(空間)がなく、執着で一杯になっています。最初に修行(アビヤーサ)をし、そして捨離(ヴァイラギヤ、あるいはサニヤーサ)、身体のレベルでは延ばし、広げ、その中に手放して寛ぐ、こうして初めて我々の内にスペースが生まれ、ここに意識の光(気づき)を当てる時、「天」、「未知の世界」、あるいは「神秘の存在」が降りてくることができ、我々を超えた存在と繋がり、交感できる。これが現在のヨーギや覚醒者から教えられ、彼らのおかげで、私自身も体験できてきたことです。
「神秘の存在」はブラフマ・スートラ(ブラフマの糸)、即ち「宇宙の中心軸」を通ってやってきます。身体と心にスペースを創りひたすら待ってください。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」353号(2015年5月7日発行)に掲載された記事です。