現代のヨーガについて
- ヨガ
古典ヨーガは、サーンキャ学派や仏教にも見られるように、古代インド思想に共通の人間観に基づいていて、人間の生は、生老病死、一切が苦であるということが出発点でした。この苦からの解放・解脱(モクシャ)を求め各学派や宗教がその救済論を示したが、古典ヨーガ学派はサーンキャ学派が終着したところを出発点としました。サーンキャでは解脱に至る形而上学的知識を得ることを最終の目的論としたが、ヨーガ学派では形而上学的知識を得るだけでは苦の解放には至らず、ヨーガ技法を通して解放に至る道を体験・体得することを基盤としました。
この苦を人間存在の本質(苦諦)とするパラダイムは多分に「厭世的」であり、現実の生や肉体を否定するものです。そのヨーガ技法も苦行、抑制・抑圧的なもので人間の自然な感情、欲望やエゴを否定しています。厳格な道徳律で自然な欲望や感情を抑圧し、身体と精神に厳しい苦行を課し、感官を自己の内側に閉鎖し、意識を自己の内部に深く沈潜させる、このような古典ヨーガの手法は現代の我々にも普遍的な意義を持つことが出来るのでしょうか?
「根源的苦」からの救済の為、各学派や宗教に修行の道を求めた人々の中で最終的な自由と解放に達した人はどれほどいたことでしょうか?凡人には到達しがたく、例外的な人のみが達成できるのなら、このような手法や理論は元から破綻していることになります。多くの人がその手法で成功し、例外的に失敗するのであればその原理は正しいと言えるのではないでしょうか。
1960年代にビートルズはインドのマハリシの許で瞑想し注目を集めました。この頃からヒッピー文化が若者の風俗・風潮として広まり、「新しい価値観」、「新しい人類観」が生まれ、座禅や瞑想の流行、新しいネオ・ヨーガ文化もこのような流れから起こってきました。そこでは生の謳歌、性の解放、祝祭に歓喜するもので、「苦」からの解放のための「苦行」とは正反対のものです。このような風潮はインドの歴史の中ではタントラや牛飼い女と遊戯(リーラ)を楽しむクリシュナ信仰などに見られましたが、現代ものはより世界的に広まり、重要な意義を持っています。
フロイトやユングに始まる精神分析・心理学で自然な感情や欲望を抑圧することが我々に破壊的な影響を与えることが見出され、抑圧された感情や意識を回復、開放することが現代の心理・精神療法、あるいはヒーリングやセラピーの基盤となっています。
現代のネオ・ヨーガはこれらの「新しい文化」の土壌の上にあり、古典ヨーガのように「今」を苦行し、彼岸に「解脱と至福」を達成する目的志向ではなく、ヨーガを行う「今ここ」を喜び楽しむ祝祭とするプロセス志向のヴィジョンを持ちます。
確かに「苦諦」は人の生の真理の一面を示しているでしょうけれど、しかしそれは真理の一面に過ぎず、真理全体ではなく何か大切なものが欠如しているように思われます。
ネオ・ヨーガが今日ほど世界中に受け入れられているのは、単なるファッションや健康だけではなく、ヒッピー文化から続く「新しい価値観」、「旧態の社会通念からの解放」、「意識や社会の改革」、等々、「新しい文化」のヴィジョンを提示するからにほかなりません。古典ヨーガでは、世を捨て人里離れた所に独居し、自己の救済の為にだけヨーガと瞑想の修行に没頭することが推奨されましたが、現代のヨーガでは積極的に社会の中に出て、人々と交流・交感するネオ・サンニヤーシンのヴィジョンが勧められます。
ヨーガを教え、教わること、ヒーリングで人と生命エネルギーの交感をすること、これらは多くのタントラ的要素を含みます。ヨーガを一人閉じこもって行えば「苦」から発した苦行になるものも、人々との調和した交感がある所では、「この時、この場」が「喜び」と「合歓の時」となるでしょう。
現代のネオ・ヨーガは共に喜び楽しむこと、生命エネルギーと心を交流・交感し調和すること。これは古代や中世からその精神性もより進化したヴィジョンを提示していると思われます。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」361号(2016年1月5日発行)に掲載された記事です。