「ヨーガとは心作用の死滅である」(続)
- インド哲学
前回『ヨーガ・スートラ』第1章第2偈、「ヨーガとは心作用の止滅である」を取り上げて、このことばはヨーガの定義の中でとても大事なことばであるとお話ししました。
インドの哲学ではことばを定義するとき、例えば「ヨーガとはこれこれである」と説明するのではなく、「これこれがヨーガなのである」というように、「ヨーガ」という定義される語を文の終わりにもってくることが主要であると説明しました。「どうして、そうなのか考えてみて下さいね」とお話しして終わったのですが、わたしの方が待ちきれずに書きたくなってしまい、ネタバレになりますが、どうしてそうなのかお話ししようと思います。
インドの哲学では、特に、仏教では、定義される語(例えばこの場合の「ヨーガ」)は文尾にまわされると思います。なぜかと言いますと、それは、定義をする人が、必ず自分で実践してどんなものか分かってから、それを自らのことばで定義するからです。特に、皆さんに説明するときは、一般的な語を使って「これこれをヨーガと言うんですよ」と説明するなら、聞いているだけでどんなものかピンときやすく、実践して実感も得られやすいでしょう。このように、相手にわかりやすく定義するのは必要なことだと考えられています。
だから、聞いている人が、実践してみて「そうだな」と思ってもらえるように「心の作用を止滅することがヨーガである」と定義づけるのが、普通なのです。しかし、『ヨーガ・スートラ』1・2のヨーガの定義はそうなってはいません。
そうではなく「ヨーガとは心作用の止滅である」というように、「実践してもしなくても問答無用に納得しなさい」と言わんばかりの語順になっています。これは、あなたが実践してもなかなかこの通りの境地に行けないぞと示しているかのようです。
これは、実際その通り、なかなか納得するのは難しい境地を表しているのです。後代ハタ・ヨーガの注釈書『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』などでは、ハタ・ヨーガはシヴァ神(初代ナータ)から伝えられたとされています。
『ヨーガ・スートラ』第1章第24偈や第26偈では、特殊なプルシャ(アートマン)としてのイーシュヴァラ(自在神)の存在が認められ、古代の師たちにとっても、彼は師であると説かれます。このように、ヨーガ学派は、神を認める立場をとり、『ヨーガ・スートラ』の実践は、ヨーガ学派の中心的な思想として現代でも君臨し続けているのです。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」480号(2025年12月5日発行)に掲載された記事です。
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著者 |
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略歴 ヨガライフスクールインサッポロ講師、北星学園大学、武蔵女子短期大学、その他多数の大学、専門学校にて非常勤講師として教鞭をとる。著書に『インド新論理学派の知識論―「マニカナ」の和訳と註解』(宮元啓一氏との共著、山喜房佛書林)、『ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む』(宮元啓一氏との共著、講談社)、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)、『龍樹造「方便心論」の研究』(山喜房佛書林)、『ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道』(サンガ)、『ブッダの優しい論理学―縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法』(サンガ新書)、『龍樹と、語れ!―「方便心論」の言語戦略』(大法輪閣)、『龍樹―あるように見えても「空」という』(佼成出版)がある。 |
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