「Who am I?」、「私探しの旅(未知への探求)」
- ヨガ
1980年代初頭、私はインド、プーナのアイアンガー道場に滞在していましたが、
三島の沖ヨガ道場から連絡を受け、デリーの空港に沖正弘導師を出迎えに行きました。
同行者にはもう一人沖ヨガ道場の同僚の玉木瑞枝女史がいて、私たち3人は
デリーからヨガ・コンヴェンションが開かれる砂漠の街ビカニェールに向かいました。
そのヨガ大会の会場では並行してジャイナ教徒の集会も開かれていましたが、
沖先生はヨガ大会よりも厳格なアヒンサー等の戒律を守る
ジャイナ教団の人たちに魅かれたようで、
白衣派教団の最高導師アーチャールヤ・トゥルシー師や
後に沖ヨガ道場にジャイナ教を伝えたタチヤ博士にお会いしました。
私たち3人はその後ジャイナ教団の招きで
人里離れた砂漠の中にある教団の研修センターで行われる瞑想キャンプに参加しました。
人員はほぼジャイナ僧侶と尼僧たちですが、
ジャイナ教には独自のプレークシャー瞑想法があります。
その方法は仏教のヴィパアーサナとハタヨガのチャクラに
色彩を対応させる方法を折衷させたようなもので、
私自身その瞑想法自体にはあまり価値を見出せないのですが、
高僧の一人から「Who am I ?」という疑問を
自分の内に問い続けて瞑想するようにと、指導をいただきました。
この「私」の探求はその後もずっと今まで続いているようです。
人は何かを探求するときその解答を自分の外に求め書物や他人から知識や情報を得ようとします。
科学技術ならそれもできるでしょうが、自分の内に「私」を求めるには何の役にも立ちません。
ヴェーダやウパニシャッドなどのインドの過去の聖典や宗教に求めたとしても
それらは死んだ過去の残骸であり、書物や他人からの知識は借用した言葉の記憶にすぎず、
「いま、ここに」生きて実存するものではありません。
もし書物や他人からの知識と情報を学習して集めることで
「真実を識る」ことができると誤って思い込んでしまえばこれらの知識や聖典は
「未知への探求」には障害となるでしょう。
何の知識や経験・記憶に依存せずに、純粋に自己の内を観て
そこに「真実」を見つけることができるでしょうか。
「見る人(私)」が自己の内外の「対象」を「見て」認識するとき、
「心の働き(思考)」がある限り「対象」に自己を投影し
虚偽のイメージ、幻想を作り上げてしまいます。
「私」は好ましいもの、都合の良いものを受け入れ、
嫌いなもの、都合の悪いものを排除します。
このように作られた虚偽のイメージ、すなわち「私」が見る「対象」は
実存するものではなく幻想にすぎないこと、
「眼でとらえられる世界」も「意や識でとらえられる世界」も実在しないことが理解されます。
また「私」は過去の記憶や経験などでできています。
それは生まれや育ち、教育、環境、性格や好み、性癖や好き嫌い、
悩んだり苦しんだり喜んだりしたこと、すなわち過去のすべての記憶や経験ですが、
ここで「私」自体を「対象」として見ることができれば、「私」という「対象」も実在せず、
作り上げられた虚偽の自己イメージにすぎないということが理解されます。
「私」はこのような「過去」の蓄積に加え、
「現在」刻々と変化し流れるものに適応し続けていますが、
「過去」と「現在」が併存する限り「私」の内は常に対立、分断が生じています。
私たちは今「コロナ禍」といわれる問題に直面しているようですが、
これを問題ととらえると、それを排除、解決して
以前のように元通りの生活が送れるようにと望みます。しかしそうはならないでしょう。
そこでは「私」は何も変わらず、自分の外の世界が自分に都合よくなってほしいと幻想を抱くのみです。
今起こっていることを事実ととらえるならば、事実は受け入れるほかなく、
この事実に個としての「私」そして社会がいかに変容してゆけるかが問われます。
「私」が「思考」で自己の内外を見て認識する限り
その「対象」には部分的で分断した虚偽のイメージしか見つかりません。
ここで述べてきたように、全てが有機的につながる全体性を同時に見渡し、見極めるような
「超我」あるいは「超意識」といわれるようなものが実在として存在するのか、
それともそのようなものも思考が作り上げた概念、虚偽のイメージにすぎないのでしょうか。
「私」にはわかりません、そして未知への探求は続いてゆきます。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」417号(2020年9月5日発行)に掲載された記事です。