苦しみや悲しみの意義 ― 古典ヨーガと新しいヨーガの違い
- ヨガ
私たちヨーガを実践するものにとり古典ヨーガとして典拠とするものにパタンジャリの「ヨーガ・スートラ」と「バガヴァッド・ギーター」があります。
「さてここにヨーガの教えを説こう」―ヨーガ・スートラⅠ-1。ヨーガを実践する者なら誰もが聞くヤマ・ニヤマに始まりサマーディーに至るアシュターンガ・ヨーガを説くヨーガ・スートラはここから始まります。その「教え」の顕著な特徴は人間の自然で大らかな感情や欲望を極度に抑圧・抑制・禁欲する苦行にありましたが、このことは今まで何度か触れてきました。私はインドでヨーガや精神文化がその後近代までに廃れてしまったのはここにあったのではないかと見ています。
では誰がこのような苦行、修行を行ったのか?現代のネオ・ヴェーダーンタの覚者の一人はチベットの伝説のヨーギン、ミラレパを挙げています。ミラレパはチベット密教の2代目の教祖で、若いころ彼は友人、親戚縁者などに騙され裏切られ家族や家の全てを失います。彼はこのように人生の全ての望みや希望を失い、絶望と恨みと怨念のままに諸国をさ迷い黒魔術に出会い修行します。黒魔術は人に災厄を与え災害を齎し怨念を晴らそうとするもので彼は修行により魔力を手に入れ、その魔力で裏切った人々に災厄を加え災害を齎し復讐を果たします。しかし人々に災厄を与え怨念を晴らしても彼の苦しみや悲しみは増すばかりで、その後もさらにさ迷い歩き、チベット密教の始祖マルパに出会います。マルパはインドで仏教の修行をして祖国にチベット密教を興した開祖です。彼はミラレパの中に黒魔術という負のカルマの蓄積を認め、不条理で無理難題の苦行を修行として課します。
ミラレパはこのような苦行に耐え負のカルマを解消しさらに修行してマルパから免許皆伝を与えられます。師と別れたミラレパは一人ヒマラヤの洞穴に籠りさらにヨーガ瞑想の修行を行います。食べるものは雑草の煮汁だけで体は緑の草色と化し全てを瞑想の修行に没頭し、ヨーガを成就し解脱を果たし自由に空を飛んだと伝えられています。ヨーガを成就したリシ(聖仙)が山奥の洞窟にいると伝え聞いた村人たちが彼のもとに集まり教えを請い弟子となりチベット密教が伝わったとされる伝説です。
古典ヨーガというのはミラレパのように全ての希望を失い絶望のどん底にあるものだけが「さてここに」ヨーガに没頭し成就することが出来るのでしょうか?それはすべての人に共通する普遍性がなく特別な例外的な事例のみに成立するのであればこの古典ヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)というシステムは元々破綻しているのではないか?
他方、もう一つの古典「バガヴァッド・ギーター」を見ても全18章の中で一つのことしか言っていません。それは「欲望、怒り、恐怖など外界との接触を止滅して自己を制御し、自らの内に本来の自己(アートマン)を見出し、その自己にのみ喜び満足せよ」。
「実にアルジュナよ、外界との接触による享楽は苦痛を生むものに過ぎず、始めと終わりがある。賢者はそのようなものを楽しまない。」―バガヴァッド・ギーターⅤ‐22
このような古いヨーガ観や精神文化は西洋に渡り西洋の科学的見地や心理学などで淘汰されより普遍性を持つものへと深まり新しい精神文化へと再生しヒッピー文化やニューエイジ・ムーブメントを通して全世界に広まりました。新しいヨーガはその潮流の中にあります。そこでは抑圧や禁欲の自己制御は姿を消し人間の自然で大らかな生が肯定されます。人は欲望に流れ、間違いをなし、怒り、恐怖、不安、嫉妬や恨みなど否定的感情も持ちそして悩み苦しみ、悲しみます。その苦しみや悲しみを知的な知識や情報で防御して自己制御することなく、抑圧や逃避もせず、その苦しみを受け容れ、共にいて、その根底にこそ全てを癒す生命の力と光を見出す時に、「苦しみや悲しみを受け容れ共に生きるとき、やがてそれは花開き実がなり落ちるように」、その時にこそ私たちは真実と愛と永遠の時があることに気づきます。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」449号(2023年5月8日発行)に掲載された記事です。