「有想三昧」、「無想三昧」そして「無分別」のヨーガ
- ヨガ
「この私の示現とヨーガを真実に知る人、彼は無分別(avikalpa)のヨーガによって結ばれる、これに疑いはない」―バガヴァッド・ギーターⅩ‐7
「有想三昧(samprajnaata samaadhi、対象の意識のあるサマーディ)とは思考作用(vitarka)、考察作用(vicaara)、歓喜(aananda)、自我意識(asmitaa)の形を有していて、対象に関する意識を有する三昧である」―ヨーガ・スートラⅠ‐17
「無想三昧(asamprajnaata samaadhi、対象の意識のないサマーディ)は心の働きを止める実修をした結果(対象の意識が消失し)、samskaara(潜在印象、行)だけが残るものである」―ヨーガ・スートラⅠ‐18
私という意識(ahamkaara,asmitaa,aatman)は何処から生まれてくるのでしょう。これらのサンスクリット語は種々の現代の言葉に訳されてきました:自我、我執、我慢、エゴ、自己、egoあるいはself。近代の西洋心理学によると人はエゴという自我意識は生まれたばかりではまだなく、他者との関係性で言語を学習し自我が形成されてゆくとされています。
自我が成長するほど自己を守る壁を作り、他者や対象を自己とは違うものとして認識し区別、分別します。自我は常にその壁の中に隠れ自己防御し、対象をその壁を通して認識するので、理解されるものは常に色を付けて投影し、解釈され、歪められてしまいます。自我意識がある限り心の働きの一つであるvikalpa(考想、妄想、分別)が働き、私(主体)と他者(対象)が区別、分別されて違うものとして認識されます。
私という意識がない状態にまで達すれば対象への意識も消失するわけですが、それを古典ヨーガでは「心の働きを止滅する」と称され、ヨーガの修行の中核とされてきました。「心の働き」は「私という意識」から生まれ「私」と「対象」を違うものと区別、分別します。私という意識が消失すれば「私」と「対象」は区別がなく一体となり無分別(avikalpa)の状態となります。「私という意識」がヨーガの修行における最大の障害とみなされてきました。
インドにおいて古典~中世のヨーガではその道を成就する為、ヤマ・ニヤマを始め数多くの抑圧的・禁欲的な修行が推奨され、人間本来の自然な感情や自我・欲望が抑圧されてきました。仏教においても我や自己が否定され、特に後世の「大乗仏教」と称されるものは原始仏教を軽視し「自己の実現、悟り、覚醒」を「自己のみの救済」に過ぎない「小乗仏教」と蔑視し、「自らを滅し衆生を救済する」大乗が優れているものとした、と伝えられています。私たちの日本でもこの欺瞞的な宗教プロパガンダは信者を獲得する道具となり、迷い苦しむ民衆はその宗教に依存して宗教組織・宗派が作られてきました。
その後仏教はインドではほとんど消滅し、日本でも現代では形骸化して過去の遺物と化しています。ヨーガも古い形のものはインドでも忘れ去られ、ほとんど消失していました。
現代、世界的、普遍的に起こってきたヨーガの潮流、思潮では自我や自己を否定することなく、むしろそれを中心に置き本来の自己を確立し生を喜び謳歌し肯定するものへと花開いてきました。自己を知り確立しない者が他者を救済することは出来ず、「救済」に「依存」すればそこに「支配と隷属」を生み病的な関係性が形成されます。
自己の中心、根源は生命の源であり喜びと愛が花開くところです。自己を確立した者のみがその喜びと愛を人とシェアーし分かち合うことが出来るのではないでしょうか。迷い悩み苦しむ人が「他者や対象」に依存して救いを求めることは愚かで怠惰な心情から生まれてくるもので病的な「支配と隷属」を生むものではないでしょうか。
私たちの新しいヨーガの道は生命の根源、自己の中心を確立し、そこから自然に起こる喜びと愛を自由に平等に分かち合い交感、合歓することです。そこでは「自己」と「他者、対象」の区別が消失し一つとなり、これが新しい「無分別」(avikalpa)のヨーガとなることでしょう。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」457号(2024年1月5日発行)に掲載された記事です。