本源に戻る=プラティ・アーハーラ(praty-aahaara)
- ヨガ
前回はヨーガ・スートラからアーサナとプラーナ・アーヤーマ(生命力の拡張)を話題にしました。その最後のⅡ—51―「第4のプラーナ・アーヤーマ」とは一切の努力や作為を手放し、ケーヴァラ・クンバカ(自発的に自然に起こる止息)に象徴されるような、本来の自己(アートマン、aatman)と一体化し、自然や宇宙(ブラフマン、brahman)と合一するような(呼吸の)状態になることとして言及されました。
今回はその続き、プラティ・アーハーラ(本源に戻る)についてです:
ヨーガ・スートラⅡ—52~Ⅱ—55からの引用:
「その時、光明(prakaasha)を覆い隠すもの(aavarana)が消滅される」
「また、心(manas、意、思考、意志、意識)は集中の保持(dhaaranaa)に適したものとなる」
「感覚器官(indriya)を自らの外界の対象(svavishaya)から引き戻し、心の働き(citta、意識)を本来の姿(svaruupa)に従うように為し(anukaara)、本源(本来の自己、アートマン、観照者)に戻ることがプラティ・アーハーラ(praty₋aahaara)である」
「そうすれば、諸感覚器官(indriya)への完全な統制(vashyataa)が起こる」
前回の稿ではプラーナ・アーヤーマ(puraana・aayaama)は呼吸法、即ち呼吸の制御や抑制ではなく、プラーナ(生命力)を身体中に拡張し行き渡らせることにあると説きました。プラティ・アーハーラも日本の著名な学者達の訳本では、「制感行法」や「感覚器官の抑制」と訳されていますが、これもヨーガをよく理解していない人による誤訳と思われます。
ヨーガ・スートラでは八段階のヨーガ(ashtaanga₋yoga)として最初の4段階にヤマ・ニヤマ・アーサナ・プラーナアーヤーマが説かれ5番目にプラティ・アーハーラがあります。最初の4段階はヨーガの準備段階であり、本当のヨーガは第五段階から始まると言えるでしょう。
プラティ・アーハーラは多く「感覚器官の制御や抑制」と訳されてきましたが、制御や抑制などのコントロールはエゴや意志・思考が行うものであり必ず二元対立(dvamdva)、自己矛盾を起こします。「本源に戻る」とは「本来の自己」を知ることであり、「汝、己自身を知れ」とソクラテスが自己の哲学の原点にしたものです。自己を知るためにはいつもは外側の対象(vishaya)向かっている感覚器官(indriya)を方向転換して内側に向けなければなりません。生命エネルギーの方向転換です。
眼・耳・鼻・舌・身という5つの感覚器官はその対象である色・声・香・味・触に向かいますが、目や耳はそれ自体では見たり聞いたりすることは出来ず、その背後には必ず「私」がいます。感覚器官を道具として「私」が感受・知覚するわけです。「私、本来の自己、本源」を知るためには通常外側の対象に向かっている生命エネルギーを内側の「本源、私」に向けなければなりません。そうすれば、その結果として「感覚器官」の「統制」が自然に起こります。それは意志やエゴで努力して感覚器官を制御・抑制することとは完全に違います。
ヨーガを深く理解せず「自己」を知らない人々は、あるいは外側に知識や情報だけを求め、あるいはエゴによる努力で自然な感情や欲望を抑圧し、それを修行や訓練と称してきました。
意識を内側に向け「自己を知る」ことは沈黙と静寂の中で起こります。プラティ・アーハーラ(本源に戻る)はその入り口といえましょう。第六段階としてダーラナー(dhaaranaa)が説かれていて、「集中、凝念」などと訳されていますが、この語は動詞語根「dhr(i)=維持、保持する」からの派生語で「集中する」ことよりそれを「保持する」ことに重点があると思われますが、それについては次回に譲ります。
令和6年10月23日
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」467号(2024年11月5日発行)に掲載された記事です。