ヨーガとは心の働き(思考と感情)の静止である
- ヨガ
「Yogas cittavrtti nirodhah.」
これはパタンジャリの「ヨーガ・スートラ(1.2)」の
冒頭に出てくる定義ですが、思考と感情の静止とはどういうことでしょう。
人は思考や感情を停止しても知覚や理解ができるのでしょうか。
ヨーガに触れる人の中にはこのパタンジャリの定義を
知識や言葉として記憶する人はいるでしょうが、
「心の働き」を超えた知覚や理解があるのかどうか、それをヨーガや瞑想の実践、
あるいは実際の生や生活の中で自分のうちに探求する人はどれほどいるのでしょうか。
人がヨーガや瞑想を行うのは、健康増進や病気・故障の治癒、
あるいは心の平静やストレス解消などの動機や目的、
すなわち「心の働き」を持って行うことが多いと思われますが、
動機や目的を持たないヨーガ・瞑想とはどういうものでしょう。
まず自分の心のうちにどのような「心の働き」、
想いや感情があるのかをはっきりと見ることができるでしょうか。
バガヴァッド・ギータ(3.4)の中に
「naiskarmya-karman=結果を求めない行為」という言が出てきますが
「カルマ・ヨーガ」の原点になったものです。
どのような行為であれそこに動機や目的があるなら
それはカルマ(輪廻)の種を生む不純な行為となり、
何の動機や目的もなく、その結果や見返りを求めずに行う行為が
純粋でカルマの束縛から解放される、とされています。
私たちが対象を見、聴き、あるいは想念を観る時、
あるがままの真実を見ることや、聴くことができず、
感受したものに想いや感情を交えて反応し、
自分にとって都合の良い解釈や判断・分析を加えて
理想や希望、概念や幻想を作り上げます。
そこに実際には存在しない希望や概念という虚偽を作りあげ
それに執着する為にあるがままの真実が見えなくなってしまいます。
これは理論や定説、あるいは思考が作り上げた概念や想像でもなく、
万人に共通する事実です。
各人がその真実を深く観るかどうかの問題です。
真実に気づくために大切なのは、自分のうちに
「実際に存在する事実」と「心の働き」(思考や感情)が作り上げた
「虚偽=実在しないもの」との区別をはっきりと見る知恵です。
「心の働き」の虚偽性に深く気づけばそれは自然に消滅するでしょう。
思考や概念を超えたもの、個としての我々を超えたものを表すのに
ウパニシャッドでは「tat=それ」と呼んできました。
「tat tvam asi=貴方はそれである」、「so ‘ham=私はそれである」、
「aham brahmaasmi=私はブラフマン(宇宙)である」などと。
「それ」は概念や言葉で表すことができず形がありません。「心の働き」を超えたものです。
「心の働き」、思考や感情は「私=エゴ」から生まれます。
「私」がいる限り、思考や感情が働いている限り「それ」はやってきません。
「心の働き」、「私」が消滅するとき、「私」と「他」、
「主体」と「対象」という二元対立がなくなり、
「それ=全体性」のみとなり、無限の未知の世界への入り口が開くことでしょう。
「それ」は宇宙全体であり、生命の根源でもあります。
我々のヨーガの実践でクラニオ・バイオダイナミックスがありますが、
「私」が消滅して「生命呼吸」という「それ」がやってきたとき、未知への扉が開きます。
ヨーガも瞑想も「私=心の働き」が消滅したところで初めて
未知の世界に足を踏み入れる入り口になることでしょう。
それ以降は言葉で表現することや思考や概念としてとらえることもできず、
また体験や経験をも超えたものでしょう。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」404号(2019年8月5日発行)に掲載された記事です。