御しがたいもの
- インド哲学
「御しがたいもの」とは、奇妙な題名ですが、ヨーガをなさっているみなさんには、きっとそんなに意外なことばではないかもしれません。言い換えれば、自分の思うようにならないもののことです。それは、自分の心や身体でしょう。ほんとにやっかいです。
まず、身体というのは、思い通りになりそうでならないものです。ちょっと動かずにいたりすると、身体の機能はどんどん衰えていきます。そうなると「年だから仕方ない」「運動しないからだなぁ」とあきらめてしまうかもしれません。そんなとき、ヨーガの実践は、機能回復や活動の幅を広げる上で役立つことでしょう。
また、一方、心については、これは本当に御しがたく手強いものです。この、言うことを聞いてくれない心を、何とか手なずけていこうとするとき、「御者が馬を調御するように」という喩えがよく用いられます。この喩えは、洋の東西を問わず、御しがたいいろいろなものについて語られます。
仏教の経典『ダンマ・パダ』には、「実に自己は自分のあるじである。自己は自分のよるべである。故に自分を制御せよ。御者が良い馬を訓練するように」と説かれています。自分というものは、案外自分の思うようになりません。仏教では、自己(我)を手なずけていって、最後には「無我」というほどの境地に達するのです。最終的には、馬である「自己」はなくなってしまうのかもしれませんね。
インドの古い哲学文献『カタ・ウパニシャッド』は、ヨーガのやり方を説明して、心がしっかりと機能すると、感覚器官は、良馬が御者に対するように柔順である、と述べます。ヨーガの中で、統御しにくいのは感覚器官ということになるのでしょう。目や耳や鼻や舌や皮膚は、勝手に色形、音、香、味や触感を感じて、それに影響されてしまいます。心が、暴れ馬のようなそれらの感覚器官を、ぐっと手綱を引き締めるように制御すると、感覚器官は、亀が甲羅に四肢を引っ込めるようにおとなしくなって働かなくなります。
西洋でも、アランという哲学者が、古代ギリシアのストア派について語っています。ストア派は情念をすぐれた御者が馬を御するように制御した、と述べるのです。情念というのは、憎悪や嫉妬や不安などの感情から生ずる想いで、人につきまとうものです。仏教でいう「煩悩」ですね。このような感情や想いは、なんどもなんども心に生じて、くり返し人を襲い悩ませます。思わないようにしようと思ってもなかなかやめられません。
このように、さまざまな「御しがたいもの」に対しては、御者が馬を調御するように、心を引き締めて自由にさせないことが、大事なポイントなのですね。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」313号(2012年1月5日発行)に掲載された記事です。
著者 |
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略歴 ヨガライフスクールインサッポロ講師、北星学園大学、武蔵女子短期大学、その他多数の大学、専門学校にて非常勤講師として教鞭をとる。著書に『インド新論理学派の知識論―「マニカナ」の和訳と註解』(宮元啓一氏との共著、山喜房佛書林)、『ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む』(宮元啓一氏との共著、講談社)、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)、『龍樹造「方便心論」の研究』(山喜房佛書林)、『ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道』(サンガ)、『ブッダの優しい論理学―縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法』(サンガ新書)、『龍樹と、語れ!―「方便心論」の言語戦略』(大法輪閣)、『龍樹―あるように見えても「空」という』(佼成出版)がある。 |