いじめ自殺
前回は大人の自殺の話をいたしましたが、このひと月は痛ましい子どもの「いじめによる自殺」のニュースが続きました。「そんなに簡単に死んではいけない」と言いたいですが、子どもの心にはどれだけ大きな負担であったのか、はかりしれません。それでも、どんなに苦しくても、生きる意味を伝えたいものです。
けれど、「苦しいから自殺する」、「迷惑をかけたので、死んでお詫びをする」こんな手本を示したのは、いったい誰なのか。生きるための学びの場である教育現場の責任者である校長が、自らの人生を終わりにさせるのですから、悲しくなります。これで、どうして子どもの自殺をとめることができるのでしょうか。「投げ出さずにがんばれ」と言われても、人生はそれでは生き抜くことができないほど、苦悩の世界だと自ら示しているのですから。「がんばれ」とは、なんとむなしい言葉でしょうか。
ひとが死ぬという事実に、私たちは本当に向き合っているのでしょうか。交通事故の原因となる飲酒運転の取り締まりは、とても厳しくなりました。自殺は交通事故による死の三倍も多いのです。その自殺に対して、社会的取り組みをしなければなりません。
いじめによる自殺は、社会全体の意識改革から始めなければ解決はしないでしょう。学校に行き、働いて、結婚して、子どもを育て、年をとって死ぬ。ここからはずれない生き方を続けることだけが当たり前ではない、いろいろな生き方のあることを認めることです。
いじめによって「死」を選ぶのは、弱いことかもしれません。けれど、いじめなどによる外的要因によって「死」を選ばされることは「殺人」と同じという認識も必要です。
子どもたちにはどんなに苦しくても、なぜ自殺をしてはならないのか。先ず、大人がしっかりと考え行動することでしょう。目的を持って生きることの強さを伝えたいです。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」251号(2006年11月6日発行)に掲載された記事です。
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