死のプロセス
いつもというわけではないですが、意外と日常的に死とはどういうことなのか、考えるときがあります。たとえば、自分が最後に迎える病気のたどる道筋を思うとき。たとえば、愛する人が死に行く病気とわかったとき。そんなときには、死を迎える過程を大切にしたいと願います。ほとんどの人にとっては、死は未知なものであり、不気味で不安なものでしょう。
私事ですが、先週父の死を経験しました。病気ではありましたが、病気とは仲良くつきあっており、一年に一回のメンテナンス入院で、家庭生活を送り、趣味を楽しんでいました。決してあきらめず、前向きに治療を受け、希望を持って家で生活していました。亡くなる一週間前には妻と娘と三人で旅行できたことが、自信となり、冬の計画を着々と進めていました。
そんな父の死は、がんからの出血のショックのため眠るように、おだやかで、あまりにもあっけないものでした。たぶん本人も、何が起こったかわからず、眠る感覚だったと思います。苦しむこともなく、自分が死ぬなんて思うこともなく、眠ってしまった、というところでしょう。いつもの通りの一日で、畑の野菜をながめ、おいしく食事をし、オリンピックのソフトボールを応援して、ちょっとつかれたと思い、眠った。呼吸が弱く、身体の冷たいことに家族が気がつかなければ、そのまま家でなくなっていたと思います。
死に行く過程は、最後の病気がどんなものでも、誰もがたどっていく、死に行く人間が必ず経験する過程を持っています。事故や病気によって、そのスピードが違うだけ。血流が止まる、酸素が不足し、脳の機能が衰える、臓器が機能しなくなる、といったものです。
そんな過程ですが、愛する者の死と直面したとき、人は救いを求め自分なりのシナリオを作り、そこに近づけていきます。残る者の立ち直るための知恵なのだと思いました。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」273号(2008年9月5日発行)に掲載された記事です。
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