「あるがまま、ある」と「あるべき、なるべき」との二元分裂について
- ヨガ
いま世間を騒がせている新型コロナウィールスによる感染は中国に始まり、
驚くべき速さで世界中に広まりました。
最初は暢気に構えていた各国の人々も今やパニック状態に陥り「戦争だ」、
「見えない敵との闘い」などのプロパガンダを見聞きするにつけ、
まるでアメリカのSF映画で地球外の未知の敵が
宇宙から攻めてくるかのように受け止められている感があります。
しかしコロナウィールスは自ら動いて攻撃することはできず、我々人が取り入れ運んで伝播したものです。
私たち日常の生活を見てもメイドインチャイナのものがいっぱいで、
世界中に中国人旅行者があふれていました。
衣類、食品あるいは日用品で中国製品を使っていない人はいないでしょう。
メイドインチャイナは安く便利で都合がよいので我々は競って取り入れてきましたが、
それに付随してやってきたコロナという都合の悪いものだけは排除するように戦うといっても、
我々にできることは外出を自粛し活動を控え、
自己と他者の間により強固な壁を築くことで自己を守ろうとするだけのようで、
私たちの4月のヨガワークショップ東京も中止となり、
私たちにとっても都合の悪いことが起こっているようです。
このような暗いニュースが多い中、私は最近レッスンのない日の朝はよく近くの海岸まで散歩に行きます。
自宅から10分くらいのところに海水浴場として整備された海岸が1㎞ほど続き、
その先に市内の複数の川が集まって出来た干潟と
海の間を分水する中洲の上に築かれた防波堤が2kmほど伸びています。
その先端まで歩いてゆくと人もほとんどいなくなり、そこで私は花崗岩の岩の一つに座り海を眺めます。
海は毎日なんと違った様相を見せることか。
一日として同じ海はなく毎回驚くほど新鮮で新しい喜びの息吹を示してくれます。
日ごとに変化する潮の満ち引き、陽の光、海を渡る潮風、波の形と音、
風の香り、毎日変化するこれらすべてのものが大きな生命の流れを示してくれます。
やがて私の内も外も全てがこの海と大自然のみとなり「私」が消滅するようです。
そこで改めて今の社会を見ると人々はそれぞれの思惑を持って
コロナが早く終息して今までのように生活できること願っていますが、
現実はより危機的は方向に向かっているようです。
人間は自分たちの都合で自らを善としコロナを悪と判断しているようですが、果たしてそうなのでしょうか。
海や大自然の観点から見れば人もコロナも等しく地球上に存在するものではないでしょうか。
我々人間はより多くの利便、利益、そして都合を求めて化石燃料を燃やし地球に温暖化をもたらし、
安価で便利なプラスチック製品を使うことで世界中の海や自然を汚染し、
安価でクリーンな電力であるという計算と理論で作られた原子力発電は
福島などの事故により大気や海に核の汚染をもたらしています。
人はまた肥大した欲望を満たすため森林を焼き払い、
海の魚や「食料」を食い尽くそうとしています。
人間とコロナのどちらが地球を汚染し危害を加えてきたのでしょう。
コロナの問題はこれらのことと関連はないでしょうか。
私たち個々の在り方や生活、社会としての在り方がコロナには最適の環境であり、
私たちが呼び込んでいるとは言えないでしょうか。
「観る」、「識る」ことはすべての存在のつながりとその本質を同時に見渡すことであり、
それは無限の未知からやってきますが、エゴから発せられる思考や思いはいつも動機や目的に限定され、
必然的に対立や矛盾を伴います。
近代ヴェーダーンタのヴィジョンの一つに「貴方は世界であり、世界は貴方である」とありますが、
「自己を識る」ことは「世界を識る」ことであり
「世界を観る」ことは「自己を観る」ことと言えるでしょう。
私たちはこの危機の時に外出を自粛し巣ごもりをすることを求められていますが、
これを自己を観、社会を観て「自己を変容」する機会ととらえられないでしょうか。
我々の都合と利得のために「敵を撲滅」するよりは、
人とコロナが共存できるように私たちがいかに変容できるかが問われているのではないでしょうか。
この記事はヨガライフスクールインサッポロ機関紙 「未来」413号(2020年5月7日発行)に掲載された記事です。